桜と3月11日/映画『Fukushima50』

今日は、3月11日である。

東日本大震災から今日(2020年3月11日)で9年が経つ。

2020年3月6日から映画『Fukushima50』(東日本大震災の際に福島原子力発電所にとどまった作業員たちが描かれている)が公開されている。

映画『Fukushima50』には賛否両論(主に、どこまでが事実でどこまでが虚構(つくられたもの)であるのかについての意見が散見される)があるが、もう少し大きな視座で考えると、映画によって、2011年3月11日に起きた東日本大震災のことを思い出すキッカケを与える点では素直に評価できると思う。

ミーコ(6)

映画の作品自体は評価しないの

そうだね。映画の作品自体の評価には筆者はあまり興味がない。『Fukushima50』の映画作品自体の評価は、専門の映画の評論家に任せておけばよいと思う。

それと”映画は現実をそのまま再現するものではない”といった意見と”実際に現場と起きたこととここが違う”といったどう違うかの程度(尺度)の話になってしまうからだ。

実際に東日本大震災の際に福島原子力発電所の現場に残って仕事をしていた人がいたことは事実である。

桜はまた今年も咲いたよ。

劇中のラストに近いシーンに伊崎(佐藤浩市)が富岡町にある夜ノ森の桜並木を見上げるシーンで吉田所長を偲ぶシーンが印象的である。

また今年も桜が咲いたよ。いった趣旨の言葉を述べたと思う。

そして、吉田所長の言葉の中に、「われわれは自然を心のどこかで甘く見ていたのかもしれない」といった言葉も印象に残っている。

目に見えないものも存在する。

これは何も幽霊がいるとかオカルト的なことを言っているわけではない。

実は、目に見えないものも存在する。(当たり前と思う方もいるかもしれないが、人は目に見えるものを信じる傾向にある。その反面目に見えないものに対して恐怖も感じる部分もあるのかもしれない)

それは放射能であったり、今でいえば、新型コロナウイルスだったりと目には見えないも存在するのだ。

そもそも私たちが生きる世界は思っているよりも不確かなものである。

私たちが生きている世界は思っているよりも不確かなものである。

これは、例えば、AならばBである。

といったような1番シンプルな事柄(トートロジー)にもあてはまる。

たとえば、簡単な四角い回路にスイッチ(回路が切り離されている部分を繋ぐ仕掛け)と電球がついているとしよう。

すると「スイッチをつければ電球がつく」といったAならばBである。といったことが言えると思う。

しかしこのシンプルなAならばBであるといった例の「スイッチをつければ電球がつく」といった事柄にも実は”時間”の概念が挿入されていることに気が付くだろうか。

このことを指摘すると、人は一種の文字通り”パニック”を起こす人もいる。

「そんなことが分かって何になるんだ」とか言った防衛反応を示す人もいるかもしれない。

ある種私たちが万全だと(なぜか)信じている世界は思ったより不確かなもの(認識)で成り立っていたりするのだ。

話が幾分脱線した。

こちらは、筆者の近所のヤマザクラの木の今日(2020年3月11日)つぼみの写真である。

桜の木は今年も開花に向けて準備をしているようだ。

(桜からしたらそんなことは関知しないこともかもしれないが)

人は、ときに桜に思いを重ねたりするものだ。(古今問わず)

“散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になどか久かるべき”(『伊勢物語』より)

季節の変わり目でもあり、体調には気を付けたい。今日は筆者は、ランニングをして身体を動かしてきた。

東日本大震災においてお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、震災ならびに原発事故の被災者の方の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

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