今回は、情報とはつまるところ、「差異」であることについて解説していきます。
これは、アメリカの有名な名な文化人類学者ないし精神医学者であるグレゴリー・ベイトソンの著書『精神と自然-生きた世界の認識論-』(新思想社,2006年)に基づいた記事になります。
20世紀の知の巨人と称され有名なベイトソンですが、この著書は僕が大学生の時代に読んだ本ですが、いま読み返しても新しい発見があります。
生きていく上で、とても重要な僕の思考の礎となった本です。
今回は、ベイトソンの知に少しだけ触れていきたいと思います。
「情報」って何!?ともし聞かれたら、「差異」です。と答えるでしょう。
情報とは、つまるところ差異(違い)だと言うことができると思います。
例えば、黒板にチョークでぐりぐりっと点をつくるとします。
その黒板の断面を指でなぞっていくと、点がある一点(隆起している)に触れた際に指の腹からそこに凹凸があるということが感覚器官を通じて、伝わってくるでしょう。
これが、情報が差異だといえる一つ例です。
触覚が最も理解しやすい(人々と認識を共有しやすい)感覚器官とベイトソンは、著書の中で述べています。そして、その黒板を目で見つめていると、何らそれらは変化しているようには、見えないかもしれません。
しかし、実は人間の二つの目は、先ほどの指でやったようなことをやっているのです。(極小振盪という角度のして2~3度の子を描いて震えており、その結果、網膜に映った像は感覚末端期間である桿状体と円錐体に対し常に運動状態に置かれている。この仕組みにより、末端期間は視界の輪郭に対応する出来事を絶えず受容し続けることになる。)
絶えず脳にそこに黒板と白い点があるという情景(シーン)を写し出しています。
もっと俗世的な例でいうと、「あの人は美しい」という情報は、つまるところ誰かと比較して何かが違う(差異)があるために美しいと言われているのです。
何かもし例(情報)を思い浮かべて、それについて考えてみる(差異と言えるのかどうか)と考える力がまた強くなると思います。
これは上記のベイトソンの著書の中のほんの一端です。(僕がかなり噛み砕いて紹介していて、味噌となる部分をもしかしたら取り逃がしている可能性があることをご了承ください。それくらい深く面白い考察で溢れています(笑))
ベイトソンはこの他にも「誰もが学校で習うこと」と称し。
・科学は何も証明しない
・地図は土地そのものではなく、ものの名前は名づけられたものではない
・客観的経験は存在しない
など、これらの事柄(タイトルだけではもしかしたら突拍子もなく聞こえるかもしれませんが)を丁寧に一つ一つ説明されていて、読むと深く納得できる内容です。
僕の記事で関連している二つの記事を参考までに貼っておきます。